SF007 絶対信仰と奇跡

 😐 絶対信仰と奇跡

・当サイトでは、「絶対信仰への道」を歩みつつ、この世でも奇跡を実現したいと思っています。

・しかし、そもそも「絶対信仰」とは、「信仰さえあれば幸福」という何も求めない気持ちです。
・それでは、絶対信仰と奇跡はどのような関係にあるのでしょうか。

・この記事では、絶対信仰と奇跡の関係を考えていきたいと思います。

一番大切なこと

・まず、一番大切なことを確認します。
・それは、「信仰が主であり、奇跡は従である」ということです。

・実践的に話すと、「ほんとうの信仰心を持てば奇跡が起きる」ということです。
・この真実は、いくつかのことを示唆しています。

① 奇跡を第一の目的にしてはならない
・第一に、「奇跡を第一の目的にしてはいけない」ということが言えます。
・奇跡を目的にすれば欲が主になります。
・欲が主になれば、よくて何も起きない、悪ければ「邪悪なるものが寄ってくる」ということになります。

 🙂 四正道の実践

⓶ 愛を実現するための奇跡である
・それでは、何のための奇跡なのでしょうか。
・それは、「愛の実現のための奇跡」です。

・わかりやすく言えば、人のために「奇跡を起こす」ということです。
・ただし、「人のために」ということは、「自分のことを考えてはいけない」ということではありません。
・たとえば、「人のお役に立てるようになるために自分の病気を治す奇跡を願う」という気持ちは間違えではありません。

(当サイトの「投資の天才への道」も経済革命を目指した投資の実践です。)

③ 愛を実現するには智慧もいる
「愛を実現する」には、智慧がいります。
・いくら信仰心が強くても、それだけでは人のお役に立てません。

・人のお役に立つには智慧が必要です。

『創造の法』では、次のように説かれています。

本業の研究や仕事などで一生懸命に努力し、勉強し、精進している人が、リラックスしているようなときに、インスピレーションは降りてきます。(p143)
生活態度を正し、正当な努力・精進の習慣を確立することは、インスピレーションを受ける前提として非常に大事である(p161)

④ 「愛は執着に転ずるものである」ことを知る
・智慧が高まり、インスピレーションをもらえば、仕事の成果がでるようになってきます。

・そこで、考えなくてはいけないのが、「愛は執着に転じやすい」ということです。
・純粋な気持ちではじめたつもりの「愛の行為」でも、成功していくうちにいつしか、自我の思いがでてきて、執着になっていることが多くあります。

『青銅の法』では、次のように説かれています。

(自己実現をしていくとき)自我我欲を増大させないのは、極めて難しいことだと思います。
 どこかで、その自我我欲の部分を少し抑え、「自分が他人様のためにできることはないか」と考えていくような方向にいかなければなりません。
 ただ、これは、けっこう難しいことです。とても難しいのです。宗教修行としても、おそらく、最後の最後まで残るものだろうとは思います。

・だから、日々の反省が必要になってきます。

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