SF102 真理の学び方② - 知的正直

・今週は、「真理の学び方」の話をしています。
・この記事は、昨年一般ページで公開した記事を改訂したものです。

・一般ページの記事で、「私(たち)は、おそろしいほど頭が悪いが、そのことを自覚していない人が多い」というお話をしたことがあります。
(私たちは、ほとんどのことを覚えていません。さらにしまつが悪いことに、「覚えていないこと」を、「起きていなかったこと」にしてしまうのです。)

・これは、その記事の続きの記事です。

 😐 「わからないということ」を「わかる」ことが大切

・「覚えていないことを『ない』と思ってしまう」のと似た現象があります。

・それは、ほとんどの人は「わからないこと」を「わからない」と思っていないということです。
・それでは、「わからない」ことがあったときにどうしているかというと、二つのうちのどちらかのことをすることがほとんどです。

① 自分の妄想で解釈する
・一つは、「わからないこと」を勝手に妄想して理解します。

・私は、学生時代競馬が好きでしたが、競馬場に行けば、レースの前は百人が百人立派な予想屋です。
・サッカーや野球を見ていると、多くの人は監督の批判をします。
・トランプ大統領も安倍首相も批判ばっかりされています。

不思議なくらいみんな自分の考えが正しいと思っています。

② 自分の妄想で解釈できないことは「信じられない」という
・自分の妄想で解釈できないときには、多くの人は、「信じられない」という言葉を使います。
・これは、幸福の科学の話をするとしょっちゅうあることです。

・つまり
「わからないこと」 ⇒ 「自分勝手に解釈する」
「自分勝手に解釈できないこと」 ⇒ 「信じられない」
というふうになっています。

マスコミは、自分の想像で芸能界のスキャンダルを伝えます。
専門家は、自分の専門分野から見てものごとの解説をします。
(これが、いろいろな社会問題の真相の一因であることは多くあります。)
(ですが、トータルとしてはだいたい間違っています。)
霊的な人は、自分の霊体験から見た霊の世界を「霊の世界」だと考えています。
霊的な体験がない人は、霊的世界の存在が信じられません。
霊的な知識がある人は、その知識で霊的な世界を理解しようとします。

・そして、一旦、自分なりの理解をしてしまうと、それを信じてしまうのです。
(そうするとほかの人の言っていることが、耳に入らなくなります)

「わからないこと」を「わからない」と思える人は、きわめて少ない感じがします。
(よくあるのは、人の話を聞いてわからないときに、人の言っていることを無視して、自分の考えていることを主張しようとすることです。)

「わかっている」とおもっていることは「わかっていない」

・もう一つ言いたいことは、多くの人が「わかっている」と思っていることは、「わかっていない」ということです。

・ただし、この話は、不毛に終わることが多いのでかんたんに書きます。

・具体例を一つだけあげます。

・私にとって「ものが見える」ということは大変不思議なことです。

・しかし、世間で「頭がよい」という言われているような唯物論者は、このことを不思議に思っていません。
「タンパク質や炭水化物がある一定の組織をつくると、ものを見ることができるようになる」と思っているのです)。
(なぜ、この世の物質が「ものを見ること」ができるのでしょうか?)
(この疑問に答えられる人はいません。)
(でも、だれも不思議に思っていないのです。)

🙂無知の知ということ

真実を知るには「わからないこと」を「わかる」(自覚する)ことが大切なのです。
(ソクラテスの「無知を知る」ということです。)

多くの人がおちいっているパターン

・わからないときに、「(わからないと思わないで)自分の考えていることを正しい」と思うと進歩は止まります。
(繰り返しますが、ほとんどの人はそうなっています。だから認識力が向上しません。)
(仏教的には慢心ということです。自分の慢心に気づいている人はほとんどいません。)

・自分が慢心をして努力をしていないのに、多くの人は「自分のことを頭が悪い」と言って終わりにしています。
・あるいは、頭がよいと言われている他人のことを嫉妬します

「知的正直」ということ

・頭がよくなりたかったら「知的正直」ということを考える必要があります。

・大川隆法総裁先生は、次のように説かれています。

私は、自分をごまかさないという姿勢で、今まで生きてきた・・・。徹底的に自ら納得いくまで探求し、納得のいかないもについては決して分かったとは言わない。そういう立場できたからこそ、今自分のわかり得ていることを、みなさんに「やまとことば」でもって、わかりやすく書き表すことができるのであります。
(参考 『悟りの原理」第3部「知の原理」)

・今回の話は、「慢心の話」でもあるし、「勘違いしやすい真理の話」でもあります。
・別の記事で、「真理を実践していないことが悪いのではなく、真理を実践しようとする意欲がないことが悪なのです」という話をしたことがあります。
・同じ理屈で、頭が悪いことは悪ではありませんが、頭が悪いことを放置していることが悪なのです。

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