[教えを、深く深く、理解する]
・本講座の目的は、『永遠の仏陀』のまえがきの「本書を読み、味わい、理解し、勝つ実践して、人生に敗れることはありえない」というお言葉を手がかりにして、人生に勝利するために、『永遠の仏陀』を深読することにあります。
・しかし、『永遠の仏陀』の第5章には、実践することが難しいお言葉が続々とでてきます。
・このお言葉を探求していきたいと考えています。
・今回は、前回に引き続き、「仏は法なり、仏は教えなり」の節のお言葉を味わいます。
仏言
くり返し、繰り返し、言う。
仏とは、姿形なきもの。
仏とは、人間を超えたるもの。
しかして、霊を超えたるものである。
仏とは、人間的なる感覚を超越し、
この宇宙を統べるところの、
教えそのものとなっている存在なのだ。
おまえたちは、
その手にしているページの一枚、一枚に、
仏の姿を見ているのである。
仏とは何であるかを知りたくば、
わが説く教えを、深く深く、理解戦とせよ。(p224-225)
〇 どうすればよいのか
ほんらいの姿と現実の姿
・まさしくこの仏言が私の人生のすべてであるはずです。仏の教えを理解することが、私の人生の目的です。そのために「命をかけたい」という思いがあります。しかし、なぜか、私の毎日は、真理の探究に徹し切れていません。
・今回は、その原因を追究して、「自分のあるべき姿」を考えていきたいと思います。
私の魂が欲しているもの
・「真理の探究」は、私の魂の奥から出ている願いだと思います。私は「真理の探究」が好きです。時間があれば、ふつうに「真理の学習をしたい」と思います。そして、今は、一日二十四時間、自由な時間があります。どう考えても、理想の生活が送れるはずです。
・しかし、なぜか、「命をかける」ほどの熱意が出てきていないのです。
マイナスの要因
・その理由は、肉体中心の考え方がでてきて、生きやすく生きたいという思いに負けているような気がします。「気がする」だけで、断言できないのは次のような理由があるからです。私の魂には、まじめなお坊さん的要素と、楽が好きな仙人的要素があります。
・この仙人的な要素が、「命をかける」ほどの努力を否定しているような気がしています。
縁起の理法と努力精進の心
・それでは、「仙人的考え方を100%否定すべきか」というと、そうとも思えません。仏は、発展を求めてあらゆる種類の人間をつくったのですから、まじめなお坊さん的な生き方だけが、仏の願われている生き方ではないような気がします。
・一つの例として、仏教的には、「縁起の理法」、「努力精進」が絶対の法則ですが、この考えを否定するような事実もないわけではありません。たとえば、スポーツの世界などでは、無理をしすぎて、体をこわして選手生命を絶たれた人間は後を断ちません。あるいは、「子供のころから努力ひと筋でがんばったのに、(才能がなくて)プロになれなかった野球選手」というような話もよく聞きます。
(ちなみに、「縁起の理法」は、絶対に正確に働くので、無理をしすぎて失敗をした人も、来世も含めて考えれば、努力は無駄になっていないはずです。次に生まれてくるときには、才能のある子どもに生まれてくる可能性が高いです。逆に言うと、「努力をしても成功できないのは、前世の努力が足りなかったから」ということだと思います。)
一人ひとりの中道
・つまり、やみくもに努力をするのがよいのではなく、「(その性格や能力にしたがった)一人ひとりの中道がある」ということだと思います。私自身は、今、その中道を探しているところです。そして、その中道は、来世・来来世までを考えた中道です。