・この記事は、シリーズSF「絶対信仰への道」の記事です。
😐 主の教えに触れる資格
・「一般ページ」の記事で、「1991年の当時、私には、『永遠の仏陀』や「信仰の勝利」のご法話の価値がわからなかった」という話をしました。
・しかし、今、現在も「主の教えの価値を理解しているか」と問われれば、「わからない」と答えざるをえません。
主の教え
・それでは、どうすればよいのでしょうか。
・実際に、主は、「仏陀再誕」(1990年の講演会でのご法話)で、次のように説かれています。
今、数多くの者が我が書を手にしているであろうが、そのなかにおいて、我が説くところの仏説に触れる資格のある者は幾人あるか。
あなた方のうちのほとんどは、
その資格なく、今、この書を手にとっている。
後の世の人びとは、あなたがたに問いかけるであろう。
どのような悟りをもって、
あなた方は我が声を聴いたかを。
(『悟りの極致とは何か』p120)
😐 弟子としての道
・私たちは、どのような悟りをもって、主の教えを聴けばよいのでしょうか。
・私たちが、主の教えの全容を理解することはできません。
・だからと言って、ただ、「主の教えはすごいすごい」と言ってすまさせるものではないと思います。
・『永遠の仏陀』では、次のように説かれています。
帰依とは、
教えを受けるために、
弟子としての道を知ることだ。
弟子としての態度を確立することだ。
師に対する態度を示し、弟子の道を行ずることだ。
これを帰依という。(p39)
日々、最善を尽くそうとする
・主の教えの偉大さに比べると、私たちは、どうしても自分に甘くなります。
・怠惰になります。
・責任を果たせていません。
・これに対する、私の現在の答えは、「日々、最善を尽くそう」と努力をすることだと思います。
・そして、日々、反省をし、日々決意をしていくことです。
主の教え
・日々の決意、新生の教えは教団の発足当初よりたくさんいただいています。
「日々、新生す」-これは実に平凡な教えです。しかし、この平凡な教えを実践していくことが、みなさんを非凡の高みに押し上げていくことになるのです。
毎日、「きょうは新しい自分に生まれ変わるぞ。きょうこそ、きのうまでの自分と決別し、まったく違った自分、まったく新しい自分になるぞ」と思いつづけてください。(月刊誌1990年七月号)
・また、最近の法シリーズでは、毎年、日々の努力の積み重ねの大切さについて説かれています。
仕事としては、一個一個、一つひとつ積み上げていくことが大事なのです。
そのように、(私は)普通にはありえないほどの生産性を持っていますが、すべてが、一つひとつ、一歩一歩の積み重ねであり、何か大きなものをドンと出そうとして行っているわけではありません。私としては、本当に、毎回毎回、一回一回の積み重ねで行っているのです。(『青銅の法』p26)
六十歳前後の人であれば、二万日はとうに消化しているので、あと一万日あるかどうかということになってきます。そのように一日一日というものは、毎日毎日、砂時計の砂粒が一粒一粒落ちていくような感じなのです。(『信仰の法』p134)
「この一日一日で何をするか」ということは、たいへん重要なことです。今日一日を無駄にしないことは、非常に大事なことなのです。(『伝道の法』p54)
この人(アーノルド・ベネット)は、「一日二十四時間を、いかに生きるか」ということを言っていますが、それは、「一日の過ごし方で決まる」ということです。
私も、この人の考えをそうとう参考にしている部分はあるのですが、その主張を一点で言えば、「とにかく、一日九十分をつくり出せ」ということです。(『智慧の法』P63 )
・『凡事徹底』の教えも人気があるようですが、そういうことなのではないかなと思います。