SF103 真理の学び方⓷ - 知的衝撃に耐える

・「真理の学び方」の話を続けます。

  🙂 『天御祖神の降臨』の前書きのお言葉

・本年出版された『天御祖神の降臨』のまえがきで、主は、「この知的衝撃に耐えてほしいと思う」とおっしゃられています。

・このお言葉がピンとこない方も多いのではないかと思います。
・というようのは、幸福の科学の教えや活動は(ある意味では)衝撃の連続であり、私たちは衝撃に慣れっこになってしまっているところがあるからです。

・しかし、これは非常に危険な兆候だと思います。
(前の記事でお話をしたのと同じように“慢心”です。

・そこで、今回は、「知的衝撃」ということについて考えていきたいと思います。

・「知的衝撃に耐える」というお言葉は、次の二段階に分けて考える必要があると思います。

① 知的衝撃を受ける
・「知的衝撃を受けない」のと、「知的衝撃に耐える」とは全く意味が違います。

② 知的衝撃に耐える
・「知的衝撃」を受けたあとは、信じられなくなったり、わからなくなったりします。
・そこで、信じる努力、理解する努力が必要になります。

 😐 知的衝撃を受ける

私が危惧しているのは、多くの人が「知的衝撃に耐えられない」ことではなく、「知的衝撃を受けない」ことです。

・主は、幸福の科学の開設当初より、「私たちに衝撃を受けてほしい」と説かれています。

・以前の記事でも紹介をしたことがあると思いますが、主は、1990年の講師等登用研修で、「真理に対する素直な驚きを感じなければだめなのです。」「もっと驚いてほしいのです」と説かれました。

・2007年の大阪中央支部精舎で説かれた「純粋な信仰」のなかでは、「外人は、主のご法話を聞いて、脳天を斧で割られるぐらいの衝撃を受ける」「もっと、大変なことだと思わなければだめです」と説かれています。

・2010年に総合本部で説かれた「改めて信仰の優位を説く」では、灯台を護る灯台守と、遠くから灯台の明かりを見る人の違いを述べ、「主に近い人間には、ほんとうの主の偉大さが見えない」と説かれました。

・私たちは、幸福にすぐに慣れてしまいます。
・これは慢心です。
毎日、毎日、意識をして奇跡を感じるようにしなくてはいけないのです。

 😐 知的衝撃を受けて、耐えるために

・「知的衝撃」を受けるという言ことは、「自分の常識と違う世界が目の前に展開している」ということです。
・したがって、その事実を受け入れるためには、自分の常識を捨てなければいけません。
・言いかえれば、「知的衝撃」を受ない多くの人は、自分の常識を捨てられない人なのです。
(真理を学んでいる人の場合、頭で考えている常識と、心で考えている常識が違うこともよくあります。)

・自分の常識が捨てられないケースとして、次の二つのケースが考えられます。

① その常識を捨てることが自分に不利に働くとき
・人間は、放っておくと自己防衛の考え方をします。
(たとえば、自分の良心に恥じることをしている人は地獄の存在を否定したがります。)

・これは、自我の問題ですので、反省の力があれば修正できると思います。
(逆に言うと、反省する力がない人は、「知的衝撃」を無視しようとします。

② 新しい事実が理解できない
・これは幸福の科学ではよく起きると思います。
・今回の天御祖神についても、十一次元の世界とか、パラレルワールドとか言われてもよく理解できません。
(理解できないと、自分勝手な解釈をして満足をするか、無視しておしまいにします。)

・このときは、「理解できない世界を理解しようとする」のではなく、「理解できている常識の世界を疑ってみる」といいと思います。

・たとえば、唯物論者は、「神様は見たことがないから信じられない」と言います。
・一見もっともな意見のようにも聞こえます。

・しかし、「ものが見える」ということは、いったいどういうことなのでしょうか。
・タンパク質と、炭水化物と、脂質でできた物質を混ぜ合わせると「ものが見えるようになる」というのはどういうことなのでしょうか。
・これを唯物論的に説明できる人はいないはずです。
・自分の見たものが「存在している」と、どのように証明できるのでしょうか。
(これを説明しようとするとハイデッカーの難しい「存在と時間」の話になります。)

・真剣に考えてみると、自分が常識と思っていることは、不思議なことばかりなのです。
人間の理解力と言うのは、神様の智慧と比べれば、蟻と太陽の大きさ以上の差があるものなのです。
・蟻の常識で太陽の大きさをはかろうとしていること自体が間違えなのです。

(つまり、理解できないことを勝手に理解しないで、「『不思議な世界がある』という衝撃を受ける」ということです。)

 😉 知的衝撃に耐えるとどうなるか

・最後に、主のお言葉を、「『知的衝撃』を受けないで信じる」のと、「『知的衝撃』を受けて信じる」のは、何が違うのかの説明をします。
・大きくは次の三つの利点があります。

① 奇跡を感じる
・はじめから受け入れるよりも、一回疑って受け入れた方が、奇跡を感じるようになります。
・上述したように、「知的衝撃」を感じるとは、常識がこわれますので、そこに今まで考えていなかった奇跡の世界が展開します。

② 足ることを知る - 感謝の心の芽生え
・奇跡を感じると、今まで当たり前と思っていたことも当たり前でなくなります。
・与えられていることに気がついたり、自分が恵まれている存在であることに気がついたりします。

③ 視野がひろがる
・私の印象を言うと、「知的衝撃」を受けて、一回疑ったあとに信じることができると、視野がものすごく広がった感じがします。
・衝撃を受けて、考え方が180度転換し、それを受け入れてさらに180度元に戻った感じです。
今まで見えていなかった360度の光景が見える感じがします。

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