SD009 「絶対信仰を目指すための『正心法語』の読み方⑨ 僧帰依について」

・この記事は、シリーズSD「絶対信仰を目指すための『正心法語』の読み方」の記事です。

 🙂 私たちの課題 - 僧帰依について

・今回は、『仏説・正心法語』の「菩提心の言葉・修行の誓い」の補足説明です。

・仏弟子にとって、仏への帰依と法帰依に関しては素直に従えるのですが、サンガの幹部から出る方針に対しては素直に従えないことがあります。
(私も、上から出る方針にはしょっちゅう疑問を持っています。)

・そこで、僧帰依のあるべき姿について考えてみたいと思います。

今回の要点

・要点は、次の三つです。

① 三宝帰依は一つのものである
・仏への帰依、法帰依、サンガへの帰依は、ほんらいはひとつのものです。

② 世の中のことは理不尽に見える
・サンガの方針にも理不尽に見えるものはたくさんあります。

③ 不合理なれど我信ず
・理不尽に見えても、「そこには一段上の意味がある」ということです。
(「幸福の科学の幹部が間違った方針を出しても、主がそれをお許しになっているのには深い意味がある」ということです。)

 😐 三宝帰依は一つのものである

・幸福の科学で、よく耳にする声は、「私は、仏への帰依、法帰依はできますけれど、僧帰依はできません」という声です。

・しかし、この言葉は矛盾しています。

・「ほんらい三宝帰依というのは、一つのもの」なのです。
(法帰依をするならば、仏=僧団であり、法帰依=仏への帰依=僧帰依なのです。)
(実際に、「僧団に帰依できない」と言っている人が、毎日『正心法語』を読誦したり、反省をしたりしているかどうかは怪しい感じがします。)

・したがって、仏や教えに帰依するかぎりは、サンガに帰依すべきです。

・このときに考え方として、二つのことが言えると思います。

一つは、「幸福の科学の三宝帰依は、非常にゆるやかなものである」ということです。

・幸福の科学の方針は「正しき心の探究」です。
・一番ゆるやかな考えでは、仏帰依も、法帰依も、僧帰依も、「そちらに向かう努力をすればよい」ということになると思います。

 😐 理不尽と見えし方針にも意味がある

・幸福の科学の活動において、現実には、上から理不尽に見える活動方針がでてくることはしばしばあります。

・しかし、世の中には、偶然はありません。
・ただ単に、その方針を批判しても魂修行の役には立ちませんが、その意味を見抜いて、しっかりとした対処をすれば、魂を向上させることができます。

・今回は、その要点をお話しします。

方針が理不尽に見える理由

・まず、「方針が理不尽に見える理由」として次のようなことが考えられます。

① お互いの考え方の違い
・人間には、いろいろな考え方や価値観があります。
・考え方や、価値観が違えば、向いている方向は変わってきます。

② 認識力のレベルの違い
・認識力が違えば、見えているものが違うので、方針は違ってきます。

③ 主のお言葉の解釈の違い
・私が、よく体験するのが、主のお言葉の解釈の違いから方針が違って見えることです。

対処の方法

・理不尽に見える方針がでたときに、まず、考えるべきは、「いずれにせよ、自分の考え方も主の御心と完全に一致しているわけではない」ということです。

・したがって、まずは、「主の御心(正しき心)を探求してみる」ことです。
(上司やみんなと話し合いができれば、もっとよいでしょう。)

・それで、主の御心がわからなければ、上の方針にしたがうことです。
・そのなかで、最善を尽くしていれば、正しい答えは見えてくるはずです。

(たとえ、上司の方針があまりよろしくないものであったとしても、主は必ず見て下さっています。)

・人間は、順境にあるときよりも、逆境にあるときのほうが、魂が成長する感じがします。
不合理に見える世の中で、たんたんと努力をしていると、思わぬ成果が得られるものです。

結論

理不尽に見える世の中で、努力をしているときこそ魂は成長する。
(幸福の科学は、いろいろな霊系団の魂が集まって切磋琢磨している場所なので、意外に厳しい魂修行の場になっています。)

 

 

 

 

 

 

・帰依というのは、ほんらいは、「身も心も捧げる」という意味ですが、幸福の科学の三宝帰依の考え方は非常にゆるやかです。

・「正しき心の探究」が僧団の方針です。

・しかし、現実には、身も心も捧げている信者さんはそう多くはないと思います。

 

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