SD004 「絶対信仰を目指すための『正心法語の読み方』④ - 有限の世界から無限の世界へ

・この記事は、シリーズSD「絶対信仰を目指すための『正心法語』の読み方」の記事です。

  😐 苦しみの根本 - 肉体中心の考え方

・今日のテーマは、『仏説・正心法語』のなかの、「智慧の言葉・仏陀の悟り」です。

・「仏陀の悟り」の重要ポイントは、「苦しみの根本は肉体中心の考え方にある」ということです。

・「仏陀の悟り」では、次のようなお言葉で始まります。

この肉体は有限なり
生・老・病・死の四苦ありて
逃るることは難かりき

・肉体の生・老・病・死が苦しみのもとです。
・しかし、これはもちろん、「肉体の存在が悪い」ということを言っているのではありません。

・「肉体中心の考え方が苦しみの根本にある」ということです。
(実践的に言うと、苦しんでいるときに、「今、自分は肉体中心の考え方をしているんだ」と思うことです。)
(そこから、「霊的な考え方とはどうのようなものか」ということを考えるとよいと思います。)

 🙂 自由な世界 - 霊的な考え方

不自由な肉体の世界

・それでは、どうすれよいかというと、

無我の心を持つならば
肉体はこれ我ならず
煩悩はこれ我ならず

「肉体は本来の姿でない」と知ることです。

・プラトンは、「国家」のなかで、地上世界の人間を「光の影が映っている映画のようなものを見せられている洞窟にとらわれた囚人」にたとえています。

・主は、「ユートピアの原理」で、次のように説かれています。

みなさんの心には、よろいがあるのです。そうした思い鉄のよろいを着て、ガシャガシャと歩いているのです。それが、霊的な目で見てどれほど滑稽であるかということを知っていただきたいのです。(p53)

・肉体中心の世界とは、非常に不自由で鈍重な世界なのです。

(これを知識として理解するだけでなく、心のなかでイメージをしてみると、霊的な世界が見えるようになってくると思います。)

自由な霊的な世界

・それに対して、本来の世界は、霊の世界です。

空の心を持つならば
霊こそ全ての根源にして
この世は仮の世界なり

・霊の世界は自由で楽しい世界です。

『永遠の法』では、次のように説かれています。

肉体から霊への移行は、せみが皮を脱いで羽化登仙するようなものです。何年ものあいだ地下で眠っていたせみの幼虫が、やがて木に登って幹の途中で止まり、殻を脱いで羽をだし、大空を飛びまわるーこうしたものによく似ています。
 また、葉の上をはっていた醜い青虫が、いつのまにか蛹になり、やがて紋白蝶や揚羽蝶になるのを見ることもあります。青虫が蛹になり、やがて蝶になっていく姿は、実は、人間の転生輪廻の姿を教えんがために、仏が創ったものなのです。そのように姿を変えながら人間は進化しているのです。(p58)

・私は、たまに、霊界で飛びまわっている夢や、蝶になって飛んでいる夢をみることがあります。

・そのときの「体の軽さ」とか、「幸福感」とか、「うれしい感じ」には、たとえようもないものがあります。
・ほんとうに「そこから出たくない!」とか、「帰りたくない!」という感じです。
・地上生活に引き戻されるのは、狭い部屋に閉じ込められる感じです。
(非常に窮屈な感じです。)

・まさしく、蝶がさなぎに戻る感じだと思います。
・プラトンの言う、洞窟のなかの囚人の感じだと思います。
よろいを着て生きている感じだと思います。

 🙂 仏陀を信じる

・そんな経験をしている私でも、私でも、地上生活を続けていると、それが当たり前になり、肉体的な 自分を満足させるために、「この世的に生きやすく生きたい」と思うようになります。
エネルギーを失い、「けだるい生活が当たり前」と思うようになり、努力ができなくなります。

・ほんとうに、地上人生というのは厳しい修行だと思います。

・しかし、この厳しい環境のなかで、一念発起して、霊的な自分を追い求め続ければ、来世には、蝶のように自由にとびまわれる世界が待っています。
(一念発起とは、言葉を変えれば、「毎日毎日自家発電をする」ということです。)

・その決め手は信仰です。

・「仏陀の悟り」は次の言葉で終わっています。

仏陀(われ)を信じる心こそ
救いの道の王道なり

今回の結論

「光が入っているときの霊的な自分」と「光が入っていないときの肉体的な自分」の差を意識するようにする。
・毎日、毎日、『正心法語』を読誦して、光を入れて、自家発電の決意をする。

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